善の研究:第四編 宗教:第一章 宗教的要求
善の研究:第四編 宗教:第一章 宗教的要求
宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一してこれに由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロが「すでにわれ生けるにあらず基督キリスト我にありて生けるなり」といったように、肉的生命の凡すべてを十字架に釘付け了おわりて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるのである。基督が「十字架を取りて我に従はざる者は我に協かなはざる者なり」といったように、一点なお自己を信ずるの念ある間は未だ真正の宗教心とはいわれないのである。
現世利益の為に神に祈る如きはいうに及ばず、徒いたずらに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。されば『歎異鈔』にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」といってある。また基督教においてもかの単ひとえに神助を頼み、神罰を恐れるという如きは真の基督教ではない。これらは凡て利己心の変形にすぎないのである。しかのみならず、余は現時多くの人のいう如き宗教は自己の安心の為であるということすら誤っているのではないかと思う。かかる考をもっているから、進取活動の気象を滅却して少欲無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得るようにもなるのである。我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已やまんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者そのものであって、決して他の手段とすべき者ではないのである。
主意説の心理学者のいうように、意志は精神の根本的作用であって、凡ての精神現象が意志の形をなしているとすれば、我々の精神は欲求の体系であって、この体系の中心となる最も有力なる欲求が我々の自己であるということとなる。而しかしてこの中心より凡てを統一して行くこと即ち自己を維持発展することが我々の精神的生命である。この統一の進行する間は我々は生きているのであるが、もしこの統一が破れたときには、たとい肉体において生きているにもせよ、精神においては死せるも同然となるのである。然るに我々は個人的欲求を中心として凡てを統一することができるであろうか。即ち、個人的生命はどこまでも維持発展することのできるものであろうか。世界は個人の為に造られたる者ではなく、また個人的欲求が人生最大の欲求でもない。個人的生命は必ず外は世界と衝突し内は自ら矛盾に陥らねばならぬ。ここにおいて我々は更に大なる生命を求めねばならぬようになる、即ち、意識中心の推移に由りて更に大なる統一を求めねばならぬようになるのである。かくの如き要求は凡て我々の共同的精神の発生の場合においてもこれを見ることができるのであるが、ただ宗教的要求はかかる要求の極点である。我々は客観的世界に対して主観的自己を立しこれに由りて前者を統一せんとする間は、その主観的自己はいかに大なるにもせよ、その統一は未だ相対的たるを免れない、絶対的統一はただ全然主観的統一を棄てて客観的統一に一致することに由りて得られるのである。
元来、意識の統一というのは意識成立の要件であって、その根本的要求である。統一なき意識は無も同然である、意識は内容の対立に由りて成立することができ、その内容が多様なればなる程一方において大なる統一を要するのである。この統一の極まる所が我々のいわゆる客観的実在というもので、この統一は主客の合一に至ってその頂点に達するのである。客観的実在というのも主観的意識を離れて別に存在するのではない、意識統一の結果、疑わんと欲して疑う能わず、求めんと欲してこれ以上に求むるの途なきものをいうのである。而してかくの如き意識統一の頂点即ち主客合一の状態というのは啻ただに意識の根本的要求であるのみならずまた実に意識本来の状態である。コンジャックがいったように、我々が始めて光を見た時にはこれを見るというよりもむしろ我は光其者である。凡て最初の感覚は小児に取りては直ただちに宇宙其者でなければならぬ。この境涯においては未だ主客の分離なく、物我一体、ただ、一事実あるのみである。我と物と一なるが故に更に真理の求むべき者なく、欲望の満すべき者もない、人は神と共にあり、エデンの花園とはかくの如き者をいうのであろう。然るに意識の分化発展するに従い主客相対立し、物我相背そむき、人生ここにおいて要求あり、苦悩あり、人は神より離れ、楽園は長とこしえにアダムの子孫より鎖とざされるようになるのである。しかし意識はいかに分化発展するにしても到底主客合一の統一より離れることはできぬ、我々は知識において意志において始終この統一を求めているのである。意識の分化発展は統一の他面であってやはり意識成立の要件である。意識の分化発展するのはかえって一層大なる統一を求めるのである。統一は実に意識のアルファでありまたオメガであるといわねばならぬ。宗教的要求はかくの如き意味における意識統一の要求であって、兼ねて宇宙と合一の要求である。
かくして宗教的要求は人心の最深最大なる要求である。我々は種々の肉体的要求やまた精神的要求をもっている。しかしそは皆自己の一部の要求にすぎない、独り宗教は自己其者の解決である。我々は知識においてまた意志において意識の統一を求め主客の合一を求める、しかしこはなお半面の統一にすぎない、宗教はこれらの統一の背後における最深の統一を求めるのである、知意未分以前の統一を求めるのである。我々の凡ての要求は宗教的要求より分化したもので、またその発展の結果これに帰着するといってよい。人智の未だ開けない時は人々かえって宗教的であって、学問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬようになる。世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかしかくの如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命其者の要求である。かかる問を発するのは自己の生涯の真面目まじめならざるを示すものである。真摯しんしに考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである。